清風寮物語⑥ 「昭和の電話事情」

昭和物語

最近皆さん電話していますか?

もし電話したとしてもお金はかかりませんよね?

僕が寮に入った昭和56年(1981年)は、電話器は大変貴重なコミュニケーションツールでした。

僕を含めて東京から6名が東西交流という人事で大阪に赴任しました。22,23歳の若者ですから、みんな彼女と離ればなれになりました。

転勤して1ヶ月で別れる奴もいました。

みんな寂しいので声を聞きたいのですが、現代のように携帯電話やスマホなどありません。

ですから電話器は大変貴重なツールでした。

今のようにビデオ通話ができればよかったのに・・・

本当に羨ましいです。

清風寮には、10円硬貨専用の赤電話器と10円と100円硬貨が使える緑の電話器が2台、入り口から入ってすぐのところに設置されていました。

料金は大阪市内なら10円で約3分、東京であれば100円で約1分程度でした。

ですから僕たちのように遠距離恋愛には100円硬貨は欠かせませんでした。

寮では、緑の電話器の方はいつも誰かがほとんど使用しており、なかなか使えませんでした。

特に1年目は、先輩の目が怖くて遠慮していました。

僕はだいたい帰り道の電話ボックスから電話をかけるのですが、不在の時もあるので、その時は一旦寮に戻ってからまたそこまで行ってかけていました。

この電話ボックスまで、歩くと3、4分くらいかかるので夏とか冬は大変でした。

それにすぐに彼女が出てくれれば良いのですが、お風呂なんかに入っていたら大変でした。

その間お母さんと話すのですが、そのちょっとしたおしゃべりで、もう400~500円かかります。

電話での通話は僕にとって高価なものでしたから、毎日なんてできません。

週に3回、一回に千円がやっとでした。それでも月に1万円以上かかっていました。

僕は買い物を極力、札を出して買っていました。

そして、お釣りの100円硬貨を電話用に貯めていました。

電話をするための、いわば「電話貯金」です。

毎日少しずつ100円硬貨を貯めていく。

「これで電話しよう」

そんな気持ちで貯金をしていたのですが――

あれ?

何か違和感がありました・・・

なんか、少しずつ目減りしているんです。

そうです。

誰かが勝手に部屋に入って、そこから拝借していたんです!!!

ドアに鍵がかからないので、僕は違う場所に隠すようにして貯めるようにしたところ、普通に貯まりました。

やはり不届き者がいたのです(怒)

今でこそ、電話でストレスなどかからないと思いますが、電話するのは本当に大変でした。

僕が寮に入って3ヶ月か、4ヶ月経った頃にある事件が起きました。

2年目の先輩で超お坊ちゃま君がいました。普段は普通なのですが、少々短気で怒りっぽい人でした。

その人がやらかしました・・・

僕はその日は電話しようと1階に降りてくると、その先輩が緑の電話器で通話していました。

早く終わらないかな?と思い、少し待っていると、突然大きな声で

「俺がこんなに愛しているのがわかんないのかよ!」と言いながら

緑の電話の受話器を壁に何度も何度もたたきつけるのです。

するとその受話器が割れて壊れてしまいました。

先輩は「あっ」と声を出しましたが、もう受話器は粉々に飛び散っていました。

貴重な緑の電話器が壊れました・・・

後から寮長からめちゃくちゃ怒られていたそうです。

すると2,3日後、緑の電話器の設置したあったところに、1か月後に新しい電話器が来ると書いてありました。

その1ヶ月は本当に大変でした。

その間、いつも行く近くの電話ボックスも寮生たちが使っていたので、さらに遠くの電話ボックスまで行かなくてはなりませんでした。

現在では寮と言っても一人一部屋だと思いますし、電話などはスマホで直接本人と話せますし、本当に羨ましいです。

僕らの世代では、家に電話すると大抵相手のお母さんかお父さんが出るので、

電話は本当に緊張しました。

お父さんなんかが出た日には、彼女の名前を告げたら「死んだ」と言われたこともありました。

でもそれも今思えば、年上の人とのコミュニケーションを取る、良い訓練だったかもしれません。

僕は、寮の電話で、色々な人の人生を知ることが出来ました。

先輩のように恋愛に対して怒りっぽくなる人もいれば、泣く人もいました。

また2時間も、3時間もの間、長電話する人もいました。

恋愛が上手くいっている人、

別れてしまった人、

これからの関係になろうと頑張っている人、など

本当に身近でこんな人の人生を見る経験なんて無かったです。

清風寮は、人生を間近で見る教科書だったのかもしれません。

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