清風寮物語《番外編》「清風寮って、こんなところでした」

昭和物語

僕が入社して1ヶ月配属先も決まって、いよいよこれから本当の社会人人生が始まりました。

そこで改めて、どのような生活をしていたのか?基本情報をお伝えします。

まずは清風寮の基本情報をお伝えします。

三階建ての建物で、部屋数は約30部屋。寮生50名。

寮費は月に8,000円。朝晩2食付き。

風呂、トイレは共同。風呂は1階にあり、トイレは各階にありました。

食堂は1階にあり、テレビがありました。

部屋には、テレビ、エアコンはなくヒーターだけがありました。

・27歳が上限で、それ以上の年齢になると退寮。

と書いてあったが、実際には30歳過ぎに先輩たちも何人もいました。

・外泊の際には、管理人に外泊届けを提出

と書いてあったが、誰もそんな届は出していませんでした。

先輩たちはと言うとあの新人歓迎会で怖い人ばかりだと思っていたのですが、慣れてきて話すようになると、なかには知的で物静かな人もいますし、優しい先輩もたくさんいました。

寮には住み込みで、70代の夫婦が住み込みで働いていました。

おじさんは、寮の掃除、買い出しから何でもやっていました。あのお風呂もおじさんの仕事です。また電話などの取り次ぎもやってくれていました。おばさんは主に食事の担当でした。

このおじさんがけっこう人の好き嫌いが激しい人のようで、帰省、出張に行ってお土産などを買ってくる人には優しく、嫌いな人には電話の取り次ぎも“いません”とか言われてしまいました。

食事は、基本は食堂でしか食べられません。食事は2食付きです。朝は、パンと目玉焼きが用意されていました。各人がトースターで焼いて食べました。飲み物はインスタントコーヒーと

なぜか味噌汁がありました。

夜は、日替わりでご飯、味噌汁、メインです。寮の管理人のおばちゃんが作っていました。僕は入った当初は食べましたが、あまり美味しくないので外食が多くなりました。ただみんな、月半ばになるとお金がなくなるので、寮で食べる人が増えました。

ビールは自販機で缶が売っていました。瓶ビールと缶詰は管理人さんに言えば、給与天引きで出してもらえることもできました。

食堂のテレビのチャンネル権は先輩にあり、新人にはありません。

僕は4年、この寮に住みましたが部屋にもテレビはありませんでした。ですから1981~1985年までの情報がほとんどありません。

ベッドとベッドの距離は80cm程度でした

この時、どんな歌が流行ったのか?人気のドラマなどはほとんど知りません。

娯楽は麻雀部屋みたいなところがあり、やっている人たちがいました。僕はたまにメンバーがいない時に呼ばれてやりましたが、基本はやる面子はいつも決まっていました。たまに深夜までやっていて、それを翌日近所の家から総務に連絡されて、寮で博打をやっていると騒ぎになったこともありました。

近所は住宅地だったので、ちょっとしたことでも総務に電話されていました。

酔って帰って来る人たちも多く、大声を出して歌ったり、ひどい時は踏切の遮断棒を折って帰ってきた人もいました。エネルギーを持て余している若者が50人もいるのですから、何も起こらない訳がありませんでした。

また寮の裏手にどこかの女子寮があり、その風呂を覗いたという疑いを警察からかけられたみたいですが、証拠がなく何事もなかったです。

清風寮の寮生はそんな事は絶対しません!!!

とは言え、裸で走ったり、大声で帰ってきたり、博打をやったり、周りからはあまり良い印象で見られていなかったことは確かでした。

RENOWNの大阪支店は京阪電車の当時、淀屋橋にありました。淀屋橋までは急行で約20分です。そして淀屋橋駅からは徒歩5,6分でした。

まわりには、ほとんどの商社をはじめ、有名企業ばかりで、すぐ近くには住友銀行の本店までありました。東京で言うと、大手町、丸の内と言ったところでしょうか?

僕はちょっとしたエリート社員にでもなったような気分でした笑

気分だけはエリート社員!

きっとRENOWNも周辺からは素晴らしい企業だとは思われていたのだと思います。

そんなイメージの会社の寮が、あんな寮だとは周りは想像もしていないと思います。

そして僕は、いよいよ本格的な大阪での社会人がスタートしました。

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