僕が歩いてきた道
僕の人生は、最初からこうなると決まっていたわけではありません。
ファッションの仕事を始め、転職を経験し、スポーツに夢中になり、海外の大会にも行きました。
そして60歳を過ぎてから、AMES BALANCEを始め、俳優にも挑戦しています。
振り返ってみると、人生の中には「まさか、こんなことになるとは」と思う出来事がいくつもありました。
その一つ一つが、今の僕につながっています。
ここでは、そんな僕の人生を、少しずつ振り返っていきたいと思います。
少年時代――比較されない人生
比較された人生
僕が一番苦しかった時期は中学校時代です。
両親の職業がまわりにわかってしまって、それを比較されることが多かったです。特に大学教授の息子というのは、よく言われました。
それと僕の名前の“亮”がお父さんの父、つまり僕の祖父の“亮三さん”からもらったことは知っていましたが、その亮三さんがとても著名な人だったことを知りました。
あの頃の僕は自分の生き方が少し息苦しく感じることが多かった気がします。
勉強もスポーツも特に得意ではなかった僕は、思春期の真っ只中で
毎日、もがいていました。
ピンクのシャツ事件
僕がなぜ、ファッションの世界に行こうと思ったのか?
そのきっかけは何だったのか?まずは、そこからお話しします。
今日は、そのきっかけとなった「ピンクのシャツ事件」のお話です。
話は、中学校時代までさかのぼります。
小学6年生から中学校に入る頃、僕はグループ・サウンズの「タイガース」が好きになりました。当時はまだオリジナルの楽曲が少なく、洋楽をよくカバーしていました。特にローリング・ストーンズの曲をカバーしていたのですが、最初はそれがタイガースのオリジナル曲だと思っていたのです。ところが、オリジナルではないことを知り、本家のローリング・ストーンズの曲を聴くようになります。すると、今度は彼らの音楽だけではなく、ファッションにも興味を持つようになりました。
そして僕は、区立の中学校に進学します。
その学校には制服がありませんでした。私服で通学してよかったのです。ちょうどその頃、僕は成長期に入り、お母さんが買ってくれた服も、3ヶ月もするときつくなってしまいました。55年ほど前、うちのお母さんは公務員をしていて、とても忙しい毎日を過ごしていました。
それまでは服をお母さんが買ってきてくれていたのですが、「これからは自分で買ってきて」と言われます。
正直とても嬉しかったのを覚えています。
最初は地元の西荻窪のスーパーなどで服を買いました。ところが、正直、欲しいものがありません。そこで、同じ西荻窪にあったジーンズショップでジーンズを買い、そして隣の吉祥寺まで服を探しに行くようになりました。
自分で服を選ぶようになると、毎日が楽しくなってきました。さらに興味が出てきて調べてみると、行動範囲がどんどん広がっていきました。中野ブロードウェイにお洒落なお店があることを知り、そこまで買いに行くようになったのが、中学2年生の頃です。
そして休日には、ひとりで原宿まで行くようになりました。今はもうありませんが、当時の同潤会アパートには、お洒落なお店がいくつもありました。お店の中まで入ってみたいのですが、お洒落なお兄さんやお姉さんばかりで、とても中までは入れませんでした。それでも、おしゃれな原宿の街を歩くのがとても好きでした。
その頃の僕は、中学校では少し変わった存在だったと思います。バレーボール部に所属しキャプテンもやりながらも、髪を伸ばし、ジーンズも誰より早く穿いて学校に行っていました。
そんなある日、事件が起こります。中野ブロードウェイの”JUN”で、ピンクのシャツを買って帰りまた。

そして、そのシャツを帰ってきたお母さんに見せると、
「あ~あ……」
というような顔をしてました。
今では笑い話ですが、55年ほど前は、男がピンクのシャツを着ることに対して、今とはずいぶん違った反応がありました。もちろん、当時の僕はそんなことを知りません。
お母さんをがっかりさせたかもしれませんが、僕はまったく気にしませんでした。
ピンクのシャツにジーンズを合わせて、堂々と学校に着て行きました。すると昼休み、生活指導の先生から呼び出されます。「男がピンクのシャツを着るなんて・・・」
と言うのです。
そして、
「親を呼んで」
と言われました。僕は、何が悪いのかよく分かりません。でも、言われた通り、お母さんにそのことを伝えました。
翌日、忙しい中、お母さんは学校に来てくれました。僕は、お母さんもピンクのシャツを見て、がっかりしているのを知っていました。だから、先生とお母さんの両方から怒られると覚悟していました。
生活指導の先生は、お母さんに、
「ピンクのシャツを着させるなんて、どんな教育をしているんですか?」
「ピンクのシャツは女の子が着るもので、男が着るなんて……」
というようなことを言いました。
すると、するとですよ!
それまで黙っていたお母さんが、急に口を開きます。
「ピンクのシャツが女性の服だなんて、誰が決めたんだ!」
「これからは男も女もない。その人が着たいものを着る時代だ!」
先生も、まさか反論されるとは思っていなかったのではないでしょうか。
さらに、お母さんはたたみかけます。
「うちでは、服は自分で選ばせている」
「自分で選ばせることで、個性を尊重している。それがうちの教育です」
そう言って、お母さんは席を立って帰りました。
たぶん先生は、あっけにとられていたと思います(笑)。
お母さんは学校からタクシーで駅まで行き、そのまま仕事に戻りました。
もし、あのとき僕が先生とお母さんの両方から責められていたら、僕はファッションを仕事に選ばなかったかもしれません。
ピンクのシャツを見たときのお母さんの「あ~あ」という顔。
あのときは、やっぱり私が買いに行けばよかった、と思っていたのかもしれません。
でも、僕はこの出来事をきっかけに、ファッションを仕事にしたいと思うようになりました。
この話は、あとになってお母さんにも話しました。
ところが、お母さんは覚えていませんでした(笑)。
僕は今でも覚えています。 そして今考えると、中学生の頃に、漠然とではありますが、将来やりたいことを決めたというのは、すごいことですよね。
それをきっかけに僕はファッションの世界にいこうと漠然と考えるようになっていきました。
もちろん、“好き”が一番の理由でした。でも、それだけではありませんでした。
ファッションの世界は、両親も祖父も知らない世界。
そこに進めば、僕はもう比較されない人生を歩むことができる。
そんなことを、当時の僕は漠然と考えていたのです。
しかしこれは両親から何か言われた訳ではありません。祖父ももう亡くなっていたので、勝手に僕自身がひとりで悩んでいただけです。
法政大学第一高等学校へ
その頃の両親は、お母さんは公務員で、今で言う「キャリア」の道を歩んでいたので、毎日がものすごく忙しそうでした。児童相談のような部署にいたので、日曜も何かあれば出かけていました。
お父さんもまた、人事院に勤務していたのですが、大学へ転職したので、お父さんもバタバタでした。
ですから、両親とも僕にかまう時間もないくらい自分たちのことで精一杯だったのだと思います。ですから両親から勉強のことも成績のことも何か言われた訳ではありません。
言われたのは「自分のことは自分で」とか「自分の人生はあなたのものだから」でした。
僕はとても自由ではあったのですが、周りからは「両親は立派なのに・・・」と比較されたことだけが、僕はとても嫌でした。特に先生達からは髪を伸ばしたり、ジーンズを穿いたり、ピンクのシャツを着たりしていたので、扱いにくい生徒だったと思います。
そうして過ごしていると中学の三年生になりました。高校受験が現実になります。ただ僕は両親から、本当に何にも言われないので、受験というものが何もわかりませんでした。一学期の間に、担任の先生と進路に関する個別相談があったのですが、僕は何も答えられませんでした。その面談の時にどうやら僕の成績では都立に行くのは難しいことだけはわかりました。
それから僕は自分で高校を決めなくてなりませんでした。その時にふと思い出したことがあります。それは西荻窪駅に私服の高校生のお兄さんを見ていたことを思い出します。
そしてそれを調べてみるとそれは西荻窪と吉祥寺にちょうど真ん中あたりにある「法政大学第一高等学校」であることがわかりました。僕はその頃、ファッションでアメリカのIVYリーグを思わせるファッション「IVYスタイル」に憧れていたので、東京六大学のひとつでもある法政大学の付属校ならばもってこいだと思い、ここに行こうと決めました。
それを両親に伝えると、あなたが行きたいならば良いと言ってくれました。今度は先生に言うと、お前の成績では絶対無理だと言うんです。僕は偏差値とかあまり知らずに選んだのですが、当時の付属校は人気で、とても厳しいことがわかりました。
でも、私服である、家から徒歩で通学できる、IVYリーグを思わせるイメージもあり、もうここ以外にはイメージが湧きませんでした。
それから僕は先生の絶対に無理だから変更した方が良いと制止を振り切り、ここ1本に絞ります。僕は両親にお願いして塾に通うことをお願いしました。そこから約半年、受験当日を向かえました。
数学、英語、国語の3科目の試験です。その中の英語でヒアリングの試験があったのですが、まったく出来ませんでした。そして運命の合格発表の日を向かえました。合格の番号を確認すると、なんとありませんでした・・・
がっかりしながら補欠のところを見ると、僕の番号がありました。しかも幸運なことに、ある試験会場でスピーカーが壊れていて、そこが試験の採点から除外されたのです。ただ問題は、補欠は親子面談があり、それから正式に合否が決まるとのことでした。親子面談にはお父さんが来てくれました。
試験官からは、僕が音楽の授業の成績が“1”だったことを指摘されました。僕は音楽の先生が嫌いで授業を受けていなかったです。
僕は本当に後悔しました。
するとお父さんが口を開きます。大学教授であることを告げ、
そして「これは私の責任です」と言ったのです。

「私の教育方針は好きなものは徹底的にやれ!と言うのが方針なのですが、これを彼は勘違いをして、嫌いなことはやらなくてもよいと思ってしまったみたいです。今後は色々なことにも幅広く知識を持てるような人に指導します」と。お父さんからそんな事を言われたことはありません。僕はお父さんに本当に感謝しました。おかげで結果は滑り込みで合格でした。
そして高校に通うことになるのですが、この高校には僕の両親やバックボーンを知っている人間が誰も来なかったので、人生がリセットされた気持ちでした。
あの比較されていた中学から解放されても、ファッションへの興味は薄れることなかったです。幸運だったのは周りにも服好きがたくさんいたので、よりファッションのことを好きになっていきました。
社会人――ファッションの世界へ
レナウンに入社した頃

僕が最初に就職した会社は、レナウンでした。
当時僕は、ずっとファッションの仕事をしたいと思っていました。
やっと夢が叶いました。
そして、いつかは企画(MD)の仕事をしたいと思っていました。
ところがところがですよ……
僕の配属先が、大阪支店にだったのです。
当時、レナウンには、毎年、東京と大阪の新人を東西交流するという文化がありました。
人事曰く、
「優秀な人材を東西交流する」
と言うのです。
絶対、嘘だと思いました(笑)。
なぜかと言うと?
本当に優秀な人材は、その面子にはいなかったからです。
では、僕がなぜ大阪に行くのが嫌だったのか?
それには理由がありました。
大阪支店には、企画部門がありません。
企画部門は東京にしかなかったからです。
つまり、大阪に行くということは、僕がやりたかった企画・MDへの夢が遠のいたということでした。
しかも、そもそも自分がどこに配属されるのかも分かりませんでした。
総務や経理などに配属される可能性もありました。
そんな中、何とか婦人服に配属されました。
そして、最初は営業からスタートしました。
でも、その後、頑張って念願だった企画・MDの仕事に移ることになります。
ここから、僕のファッション人生が本格的に始まっていきました
大阪支店時代
初日の洗礼
配属が決まり、いよいよ赴任することになりました。
そして僕はレナウンの寮に住むことにしました。本当は嫌だったのですが、寮費が朝晩ご飯が付いて、月額8千円でしたので他に選択肢はなかったです。
3月中旬の月曜日から新人研修が始まるので、その前の金曜日に移動して、土日で部屋を準備して研修を向かえることにしました。
しかし、しかしですよ!
もう着任したその日からトラブルに見舞われました。寮があるのは京阪電車の香里園という駅なのですが、JRで新大阪に着いて、梅田で地下鉄に乗り換えて、淀屋橋で京阪電車で約20分で着く予定でした。しかし新大阪で在来線に乗り換えて、一駅と聞いていたのですが、梅田駅が無いんです。結局三ノ宮まで行って、駅員さんに聞いたところ地下鉄では梅田駅、JRでは大阪駅と駅名が違うことがわかりました。
やっと大阪駅まで戻ってきて、地下鉄に乗り換えの時にエスカレーターに乗っていると、後ろから
若い女性の声で「もたもたすな」と怒鳴っている声が聞こえました。
僕は何かトラブルでもあったのか?と思っていると、女子高校生に呼び止められて、あんたや!と言われました。僕は何がなんだか?まったくわかりませんでしたが、大阪では左側に立っているのはルール違反だと後からわかりました。
もう大阪に着いてから。1時間以上うろうろさまよって、ようやく香里園の寮に着きます。管理人さんに挨拶をして、部屋に案内されるともう人がいました。僕と同室の奴でした。そいつから聞いたところ寮生は50人いて、部屋数は約30部屋。ですから15人程度はひとり部屋ですが、残りはふたりで一部屋でした。6畳にベッドがふたつ、机を椅子があるので、もうそれで部屋はぎゅうぎゅうです。ベッドとベッドの距離は80cmくらいしかありません。あとはクローゼットみたいなものがそれぞれにありました。部屋にはエアコンはありませんでした。
そして自分が送った荷物を開けて、部屋の準備をしようとしたら僕が送った布団ではないものが入っていました。使い古された布団が入っていたのです。これも後で知ったのですが、新品の布団は先輩が使うために持って行き、代わりに古い布団と交換するのが、寮の伝統らしいのです。
僕は今日乗り換えを間違え、後ろから女子高校生に怒ら、布団は中古になっていて、もう泣きそうになりました。
寮の名前は清風寮でしたが、清い風はまったく吹かない寮でした。
僕が目指していた企画部門への道は、遠く、果てしなく感じました。こうして僕の社会人一日目は、希望とはほど遠い、絶望の淵から始まったのです。
それから約1ヶ月間の新人研修を終えて、婦人服に配属されました。この研修中の一か月も寮では大変な事件の連発でしたが、何とか乗り切り配属されました。
そして担当を命じられますが、百貨店の担当になりました。大阪では電鉄が百貨店を運営しており、その電鉄系の百貨店の担当になりました。しかし試練の連続です。22歳の大学を出たばかりの人間が社会人としての知識もまったくない上に、街もわからない、言葉もよくわからない、まったく違う文化の中で仕事などできるはずがありません。百貨店のバイヤーからは、“わしは東京もんは嫌いや”と言われ、上司に担当変えてくれとまで言われたり、また名刺を捨てられたりしました。当時は営業は土日も販売応援に入るのが当たり前で、休みは定休日だけでしたが、その日に社内の会議が入ると休みがなくなります。残業は毎日ですし、百貨店の定休日の前は売場移動があるので、帰りは深夜になりました。
僕はもう考えることも忘れ、ひたすら仕事に没頭しました。たまの休日は夕方まで寝て、洗濯をして終わりでした。
企画・MDへの道
しかし2年も経ってくると、人間って不思議ですね。大阪での生活も徐々に順応していきました。
そして3年目に転機が訪れます。仕入れ担当というポジションがあったのですが、それを担当していた先輩が東京に転勤になったのです。それも企画(MD)として(驚)。
僕はこんなところに企画への道があるんだ!と驚き、その後釜に立候補しました。そのポジションは経験が必要だったのですが、そこに運良く抜擢されたのです。僕はそこで東京の企画部門の人達と接点を持ち、そして仕入れ先(縫製工場、プリント、刺繍工場、生地屋、付属屋)などの人達とも接点をもつことが出来ました。
それを5年担当してまた営業に出るのですが、そこでまた転機が訪れます。1989年に婦人服事業本部と言う部署が出来ることになりました。
そしてそこは思い切って若い人達を登用していくことが発表されました。今までのMDと言うのは、営業を約10年しっかりやって、なおかつ優秀な人材は登用されると聞いていたのですが、これからの時代は経験値も大切だが、感性も大切になる!とのことで、大阪に少し変わった面白い奴がいると引っかかり、僕が企画部門へ異動することになったのです。
僕の同期は東西で約100名いました。その多くが企画部門に憧れていたはずです。しかもその同期達は、東大や京大、阪大などの国立はもちろん、私学でもトップクラスの大学出身者ばかりでした。
そんな中、僕がMDになれたのは運が良かったのはもちろんだと思いますが、何と言ってもファッションが人一倍好きだったからだと思っています。優秀な同期達は、本当に賢く何でもできると思います。だから別に服でなくて、車でも、電化製品でも、石鹸でも売れたと思います。
僕は大阪支店時代でも、ファッションだけは拘るようにしていました。基本はベーシックなトラッドスタイルですが、時には遊び心のある物も着ました。僕が優秀な同期に埋もれず、ファッションが好きだったことがチャンスを掴んだのかもしれません。
ピンクのシャツ事件のときから、僕は人と比較されないことを大切にしてきました。もしかすると、そんな生き方が、僕に運を運んできてくれたのかもしれません。
「東京へ――念願の企画・MD」
MDとしてのスタート
僕は運良く婦人服事業本部に異動し、念願のMDになることができました。

ここからMDとして大活躍していくイメージでしたが、実際は試練の連続でした。
東京出身で戻ってきたと言っても、RENOWNの東京に知り合いはいません。ましてや企画部門には、MD,デザイナー、パタンナー、生産、QCなど今まで仕事で接点を持っている人間は誰もいませんでした。
入社試験の時にずっと一緒だった同期はお帰りと優しく迎えてくれましたが、他の同期から“なんでお前なんかがMDになれたんだ?”と言うような妬み、嫉妬心を感じました。しかし僕はそんな奴らにかまっている暇などはありませんでした。
まずはMDとは何をすれば良いのか?を学ばないといけません。
上司と同僚のMDはいますが、誰も何も教えてくれません。MDになりたての人も多かったので、彼らも自分達の仕事で手一杯だったからです。そんな中、僕はあるブランドを急遽担当することになりました。西武百貨店とのコラボ企画で、新ブランドの担当を命じられました。僕が異動した夏から始まるプロジェクトでした。僕は当初は、別の新ブランド構想があって、それの中身を考えていました。
その担当することになったブランドは他の先輩MDが担当していたのですが、交代の理由は良く分からなかったのですが、なぜか僕が担当することになりました。そしてその交代理由が明らかになります。その先輩はある意味、とても豪快な?人でした。
毎月課のMDミーティングがあるのですが、ある時課長が先月タクシー代で35万つかった奴がいると言うんです。僕を含め、その課のMDは4人です。みんな顔を合わせて、そんな奴いるの?と思いましたが、課長が“田中!、お前や!!!”と言いました。他の3人はびっくりしました。聞くと、オフィスのある門前仲町から、彼の家までほぼ毎日タクシーで帰っていたようです。しかも飲食代も15万くらい請求していたようなんです。
田中さん曰く、西武百貨店の担当者と毎日ミーティングで使ったと言うのですが、僕が担当になって西武のバイヤーに聞くと、夜は一度もご飯行ったことはありませんとの事でした。全部嘘で、毎日門前仲町で飲んで、タクシーで帰っていたのです。
僕はMDという業務がまったくわからないまま、いきなり実践することになりました。当時の西武百貨店は、勢いがあってRENOWNにとってもとても大切な取引先でした。RENOWNの様々なブランドが展開しており、これも共同プロジェクトでしたので、失敗すると他のブランドにも影響出かねないので、正直やりたくありませんでした。自社ブランドで経験を積んでから、やりたかったのが本音でした。そして試練は次々やってきます。前任の田中さんがもうどこかに飛ばされるみたいで、引き継ぎをやってくれないのです。A4一枚に仕入れ先の住所、担当、電話番号が載っているものを渡されただけです。
それに、それにですよ!!!
毎日、リサーチと称して会社に来ないんです!!!
8月から始まる新プロジェクトなので、商品は7月にはもう倉庫に入荷していないといけませんが、商品が一向に上がってきません。僕のブランドは生産もいないので、全部自分でやらないといけません。
その電話番号の担当者に連絡しても、ごまかされます。
僕は課長に言って、その工場に飛びました。そこで目の前にあったのは、展開される商品ではなくて、まだ手つかずの反物でした・・・
僕はその場で、ぼっ~としてしまいました。担当者曰く、生地が入ってきたのが最近なので、これからですと言うのです。田中さんはもう生地はとっくにあがっていると言いました。どちらかが嘘をついているのですが、今はそれよりも商品をなんとかしなくてはなりません。僕は課長に電話すると、課長は怒るのですが、僕はどうすることもできません。翌朝、課長と打ち合わせをします。仕入れ先のことを聞かれましたが、僕はまったく知らない業者なのでどうしようもありません。田中さんに聞こうにもその日もリサーチで会社に来ません。
すると課長がその資料を見ると、仕入れ先はある商社の名前がありました。その商社は今では日本一の商社で誰でも知っている商社です。すると課長がその商社に電話して、RENOWNの担当者を呼びつけました。そして事情を聞くと、田中さんはその商社に、何もしなくて良いので、伝票だけ通してくれと言ったそうなのです。ですからその商社の担当者も、その工場のことはまったく知りませんでした。
僕は絶望しました。西武との関係が壊れると言う最悪のシナリオが頭に浮かびます。ところがうちの課長はすごかったのです。その商社の担当を厳しく怒ったのです。伝票を通すだけとはいえ、ビジネスなんだから引き受けた以上は責任持て!と言うのです。
するとですよ・・・・その商社のネットワークは本当にすごかったです。7月の終わりから8月の夏休み前まで、どこも繁忙期なのに、都内のありとあらゆる工場、サンプル工場などを押さえて、わずか10日間で、商品を全部作ってしまったのです。本当に衝撃でした。
そして10日後、その商社の担当者がRENOWNに来ました。僕は心から御礼を伝えました。一方課長は“やればできるやん”の一言だけでした。その後僕は、商社の人に呼び止められて相談を受けました。
実は特急料金を払って作りました。その差額の金額を見せてもらいましたが、2,000万円以上あるのです。結局その2千万はその商社が泣きながら、肩代わりしてくれました。今、その商社の担当の人は自分で起業して、生産業務を請け負う会社をやっています。今でも2年に一度くらい会って飲みますが、今でもこの時の話がでます(笑)
初めての挫折
僕のMDとしてのスタートは最悪でしたが、色々勉強になりました。
その後僕は、中堅クラスのブランドの担当になるのですが、そのブランドは売上が落ち目のブランドだったので、その立て直しを期待されて抜擢されたのですが、立て直すことはできませんでした。
思えば、僕は大阪時代からMDになりたい、なりたいと言うことばかりで、MDになることがゴールだったような気がします。
MDになったら、こうしたい、こういう企画をやりたいという具体的なビジョンもなかったのです。同期に負けたくない、誰よりも早くMDになりたい!とそのことばかりで、その先がなかったです。
西武とのプロジェクトは西武側の意向も大きく影響するので、MDと言っても生産的な役割が強かったので、僕が考えることが少なかったからできたと思いますが、自社ブランドは本来ならばMDが主導でやらなくてならないのに、その実力は僕にはありませんでした。
そして僕はもうこれ以上はできないと自らMDを外してくれと上司に願い出ました。僕は社会人になって初めて挫折してしまいました。
心が折れてしまったのです・・・・
心が折れて――仕入れ担当へ
僕はココロが折れて、一時は会社を辞めようと思いました。
そんな時、僕のことを見てくれる人がいました。営業の課長でした。そして僕を仕入れ担当に誘ってくれたのです。
約3年間のMDでは、楽しかったこともありました。でも、何より自分の実力不足を痛感しました。この時、僕は32、33歳だったと思います。仕入れの仕事を始めてみると、MDの時とは大きく環境が変わりました。MDでは全国のことを考えなくてはいけませんでしたが、今度は東京だけの仕入れ部門を担当することになりました。
すると、毎日定時で帰れるようになりました。全国のことではなく、東京地区だけのことをやればいい。それまで毎日毎日、最終電車で帰り、朝も早い時間に出勤していたのが、嘘のようでした。
仕事が、楽勝に思えました。ところが、そうなると今度は時間を持て余すようになります。そこで僕は、ジムに入り、身体を鍛えようと思いました。
僕は大阪時代の28歳の時に丹波篠山マラソンを完走しました。
そこからマラソン大会にいくつか参加していたのですが、MD時代にはそんな余裕はなく、中断していました。でもまた走ることにしたのです。
ジムの休憩中に何気なく見た雑誌に、夕方日が暮れる中、走っている写真が目に飛び込んできました。なぜ、こんな夕暮れに走っているのか?不思議で、その中の記事を読むと、それは宮古島のトライアスロンの写真だったとわかりました。
その時僕は、泳げないのにトライアスロンに出てみたいという気持ちが湧いてきました。そこから1年間、ほとんど休まずプールに通いました。最初は25Mも泳げませんでした。でも毎日毎日コツコツやっていると、いつの間にか100M泳げるようになりました。そして200M, 400M、1,000Mと距離が伸びるようになっていきました。
自転車も購入し、練習を開始します。そこから僕の人生が変わりました。朝走ってから会社に行って、戻ってジムに行き、エアロバイクを漕いで、そこから泳ぐ。これをルーティンとしました。
土日はロードバイクを練習し、大会に備えました。
そして一年後、念願の大会に参加します。初トライアスロンは山形県の温海で行われたレースでした。スイム1,5キロ、バイク40キロ、ラン10キロのオリンピックディスタンスでした。そして何とか完走することができました。その後秋冬にはマラソン大会や自転車だけの大会などにも参加するようになっていきました。毎月何かしらの大会に参加し、気付けば年間10回くらい参加していました。

RAC誕生――MD復帰
すると面白いことが起こり始めます。マラソン大会の翌日は筋肉痛で脚を引きずって会社に行くと、どうしたの?と声をかけられます。脚どうしたの?と先輩から聞かれました。僕は昨日マラソン大会に参加したと伝えると、そんなレースがあるの?教えてよと言われました。以前僕がMD時代に色々教えてくれた先輩でしたから、仕事終わりに一緒に走ることにしました。すぐ近くに隅田川があったのでそこを走りました。会社にはシャワーを浴びる施設もあったので、環境も良かったです。
するとその先輩が人を呼んできます。最初は3,4人でしたが、それからどんどん人が増えていき、10人になりました。僕はただ走っていても、目標がないと面白くないと思い、みんなをレースに誘いました。5キロくらいのレースから始めて、続けて駅伝のような大会にも参加するようになりました。気がつけば20人くらいになって、最終的には30人の大所帯になったので、会社のクラブに昇格しました、そろいのユニホームを作り、色々な大会に行くようになりました。

メンバーは多種多彩でした。最初は婦人服の人達だけでしたが、メンズ、子供、インナー、広報、システムなど普段関わりがない人達の集まりになりました。そこで色々ルールが作られていきます。練習中や大会では、上下関係は一切無し、役職で呼ぶのは禁止、レース中の応援は呼び捨てなどです。
トライアスロンをしたり、RAC(RENOWN ATHLETE CLUB)を作ったりしているうちに僕の身体はすっかり元気になりました。
すると不思議なことにココロも元気になっていました。気がつけばMDを離れて4年経っていました。
また不思議なことに、ここでまたMD復帰の辞令が出ました。僕はどこかでこのときを待っていました。仕入れ担当でMD達との連携を取って仕事していたので、MD達を客観的に見ていました。なるほどこうやれば良かったのか!とか、僕ならこうするのに!とか俯瞰して見ていたので、復帰を言われた時は嬉しかったのと同時に、MDになったらこうしたい!という準備が出来ていました。最初は転勤してきたばかりで知らない人ばかりでしたが、今は走る仲間も含めて、人間関係が出来ていたので、今回は全く違いました。
そして企画の仕事をやり始めてみると、やっぱり楽しいのです。
僕は、なぜあの時、簡単に手放してしまったのか?と後悔しました。
そして、生涯、企画の仕事にかかわっていこうと決めました。
この時、僕は心身共にタフになっていました。そして、自分自身に少し自信も芽生えていました。
やはり、ココロとカラダは繋がっているのですね。

RENOWN――もう一度、企画の仕事へ
企画部門に戻った僕は毎日が本当に充実していました。年齢も36,37歳と人生で一番元気な時期だったかもしれません。
企画の仕事も充実していましたが、趣味のトライアスロンやマラソンも続けることができました。忙しい毎日でしたが、以前のように深夜まで働くと言うようなことは無く、ジムに通う時間は確保できました。

担当のブランドでは年2回イタリア出張があったので、英語の必要性を感じ、週2回英会話を習うことにしました。この時は仕事、趣味、学びとバランスの良い時間を過ごせました。
企画の仕事はひとりではできません。デザイナー、パタンナーなどの専門職との仕事ですが、色々経験したお陰で自分の意見も積極的に取り入れてもらえるようになっていました。僕が提案する商品が世に出て行くことは、本当に嬉しかった反面、それが売れなかった時の辛さも味わいました。でもこのヒリヒリする感覚は企画の仕事の醍醐味だと思いました。
MDに戻っても周りが理解のある人達の環境でしたので、僕はトライアスロンの海外(ドイツ)のレースにも参加することができました。本当に心技体、充実した時間を過ごせていました。
突然のリストラ
ところが2001年の暮れに突然その指令が発表されました。
その頃のRENOWNは、僕の所属する婦人服事業本部の業績は好調でしたが、メンズ、子供、インナーの業績が苦しく、毎年のようにリストラが行われていました。僕のブランドは大きな売上があった訳ではありませんが、黒字だったので、僕はリストラは無縁と考えていました。ところが、これからは強化ブランドに集中して、予算も人も投下すると発表され、僕のブランドは別会社に売却されることになりました。そして僕以外の人間は別会社に移籍することを決断しました。僕はRENOWNが大好きだったので、RENOWNで働くことを選択しました。
すると上から、婦人服のブランドもかなり縮小するので、MDも減らすこと告げられました。僕はこのままRENOWNに残っても企画の仕事ではなくなることを悟りました。
僕は大好きなRENOWNでしたが、もう企画の仕事しか考えられなかったので辞める決断をしました。本当に今でも思い出すと辛い決断でした。
こうして、約20年間勤めたRENOWNを離れることになりました
「チャコット――新しい世界へ」
2001年の暮れに辞める決断をしましたが、有休があったので、正式な退社は2002年の3月末になりました。その間を使って就職活動を始めるのですが、企画の仕事が簡単に見つかるはずはありませんでした。年齢ももう42,43歳になっていたので、この年齢での転職、それも企画での仕事は本当になかったです。転職エージェントや知り合いを通じても、なかなか見つからず時間だけで過ぎていきました。
気がつけば、就職活動を始めて3ヶ月が経とうとしていました。
毎日が焦りで、辛い時期でした。その時、西武百貨店の商品部の課長だった人から電話をもらいました。以前担当したブランドで知り合った人でした。その人は毎年、年に一度、なぜか連絡をくれていました。僕は離職したこと、転職活動中だったことを伝えました。
すると彼は今チャコットに転職しているので、ちょっとかけあってみると言ってくれたのです。
僕は暗闇の中に一筋の光を見た気がしました。
すると面白いことが起こり始まりました。以前面接を受けた企業から電話がありました。僕はそこでは婦人ブランドのMD募集を受けて応募したのですが、最終面接で落ちていました。ところがその企業はメンズも展開しており、メンズブランドのMDも募集しており、そのMDはどうですか?というお誘いを受けたのです。僕は詳細を聞きに再びその会社を訪れ、そのブランドのことを聞きました。
それはイギリスの紳士服で、とても伝統のあるブランドでした。
僕は中学の時に服作りをしたいと思ったのは、もちろんメンズでしたので、そのオファーはとても魅力的でした。その時チャコットからは何も連絡はありませんでした。が、その面談に行った翌日にチャコットの人事から連絡を頂きました。電話で来てもらいたいとのオファーを頂いたのです。何ヶ月も苦しんだのに、何と同じ日に2社から採用の連絡を頂くことになってしまったのです。今度は別の悩みが生まれました。中学の時からいつかはやりたかったメンズか?、それとも文化、芸術の世界か?
僕は一晩寝ずに悩んだ末にメンズの企業に転職することを決意しました。中学からやりたかったこと、提示された年収が150万円高かったことも決断の理由でした。僕はチャコットに誘ってくれた人に電話して、お昼に報告することにしました。電話で断るのは失礼だと思ったからです。そして正直にその事を伝えました。そしてその具体的なブランドも正直に報告しました。
するとするとですよ!!!その人は怒るとか、困るとか言うのでは無く「良かったじゃない!」と言ったんです。僕は何で???と思いました。
でもなぜかその言い方がとても面白くて、僕はやっぱりここでお世話になりたいと言いました。今でもあの時、なぜそんなことを言ったのかわからなかったのですが、突然そのような決断をしました。ファッションの世界の大好きな世界ではありましたが、文化とか芸術とかバレエとか、違う世界を見てみたいという気持ちが心の中にあったからかもしれません。
そこから僕のチャコットの扉が開き、新たな挑戦が始まりました。
チャコット――新しい世界へ
チャコットは八百屋だった
転職も決まり、チャコットで新しい世界が始まりました。
僕に声を掛けてくれた方は、「バレエ・フィットネス」の事業部長でした。僕はフィットネス事業の担当となり、課長職を拝命しました。
僕のミッションは、売上が鈍化していたフィットネス事業のテコ入れです。しかし、いきなり何も知らない人間に色々と言われても、周りも嫌だろうと思いました。
そこで僕は、まずチャコットを知ること。そして、チャコットに馴染むことに全力を尽くすことにしました。そしてチャコットのことを色々と調べていくと、いくつか驚くことが分かってきました。
当時のチャコットは、バレエとボールルームダンス事業が安定しており、そこで約80%の売上を占めていました。また、全体の約70%が定番商品で構成されていました。定番商品とは、大きく分けるとシューズ、インナー、タイツです。
これらはすべて消耗品です。
サイズが変わったり、タイツが破れたりすると買い替えてもらえます。その中でも、特に子供向けのビジネスが大きな収益になっていました。子供はすぐに成長するので、シューズやレオタードなどは購入頻度が高いのです。
僕にとって、このビジネスモデルは衝撃的でした。
RENOWNに限らず、当アパレルビジネスは、毎年毎年新商品を発表して、在庫が残ったらセールで販売し、最後は叩き売る。そんなビジネスが当たり前でした。
そこで僕は、
「チャコットは八百屋さんと同じだ」
と思いました。
なぜそう思ったか?と言うと
八百屋さんで販売するものは、多くが定番商品です。ジャガイモ、人参、玉ねぎ、ピーマン、大根、茄子、トマト……。毎日必要なものを、繰り返し買ってもらう。
僕は、これはとても強いビジネスモデルで、アパレルにはない圧倒的な強みだと感じました。

さらに、当時のチャコットは約60%を直営店で売っていました。アパレルでは、百貨店などに卸すことが前提だったので、これも僕にとっては新鮮でした。また約30%は、ダンス教室やバレエ団などに直接販売していました。つまり、チャコットは約90%を直接ユーザーに販売していたのです。
僕は、
「これはブランドビジネスだ!」
と思いました。
安定的な定番商品を持ち、それを自社のショップで直接販売する。
これはまさにブランドビジネスです。
そして現代では当たり前になっているこのモデルを、チャコットでは70年以上も続けていたのです。さらに、商品にはほとんど「チャコット」という名前が付いていました。
企業名=ブランド。
当時のアパレルでは、企業名そのものがブランドになっているケースは、あまり多くありませんでした。今までとはまったく違うビジネスモデルに触れたことで、僕の概念は根底から変わりました。
MDとしての基礎はRENOWN時代に学びました。
そしてチャコットでは、ブランドビジネスを学ぼう。そう思うようになりました。
完全に開き直りました
チャコットに入社して、1年が過ぎた頃でした。
まずはチャコットを知ること、そして馴染むことに全力を尽くしていたので、売上はフィットネスの売上は横ばい状態でした。
そんな時、ある事件が起こりました。
それは月に1回ある部課長会でのことです。全国の課長達が担当エリアの業績を発表します。そこで社長や幹部達がただダメ出しをする会議で、僕はまったく面白くない会議だと思って聞いていました。
ところが突然、社長から僕に矢が飛んできました。
1年間、僕の仕事を見てきた社長から、
「金平はまったくの期待外れだ」と、全員の前で名指しで言われたのです。
僕は心の中で叫びました。
「期待外れと言うのは、高額の給料をもらっている人間が、まったく結果を出せない時に言うんじゃないの?」「僕はそんなに高額の給料をもらっていないのに、期待外れって何だよ!」(笑)
その瞬間、僕は吹っ切れました。
「馴染むのはもうやめよう。もう好き勝手やろう」完全に開き直ったのです。そこから僕は、フィットネス事業で展開している商品を、スクラップ&ビルドすることを決意しました。
マーケットを徹底的に調べ、土日もスポーツクラブなどに出向いてリサーチをしました。
それが2003年でした。
その頃、アメリカではヨガがセレブ達の間で流行していることを知りました。2001年の同時多発テロ事件以降、心のバランスを崩す人が増え、ヨガが広がったとも言われていました。
日本では、まだ一部の女性がやっているという程度でした。ところが、ヨガスタジオにリサーチに行ってみると、20代の女性たちが、お洒落なフィットネスウェアを身にまとっているのを目の当たりにしました。
それまでのチャコットのスポーツウェアは、原色を使ったものも多く、直営店の中では少し浮いていました。2003年は、リサーチを徹底的して新ブランドの準備をすることにしました。2004年の春、新ブランド案を上層部にプレゼンし、2005年春からの新ブランド展開について了承を得ました。そこからはデザイナーと一緒になって、新素材の開発、デザインワークを徹底的に行いました。サンプルも何度も作り直しました。
今までとはまったく違う。
でも、どこかチャコットを連想させる。
そんなフィットネスウェアを作りたかったのです。
「他にはない、女性のためのフィットネスウェア」を目指しました。試行錯誤の末、2004年の秋に展示会という形で世に発表しました。
ブランド名は、「Welcomfo by Chacott」にしました。

メディアの方々も多く来社してくれたので、新聞や雑誌などにも取り上げてもらいました。それまでのフィットネスウェアは、男女兼用のようなものも多かったので、女性らしいカラーリングやデザインが、とても新鮮に映ったようでした。
そして2005年3月、販売が始まりました。
予想以上の反応でした。「チャコットらしい」と評判になり、店頭スタッフからの反応も良かったです。僕は、一からブランドコンセプトを考え、素材、デザインまで、一点一点入り込んで商品を作った経験が初めてでした。だから、Welcomfoにはとても思い入れがあります。
そして、このブランド開発を通じて、僕のチャコットでの評価が少しずつ変化していくのを、肌で感じました。あの時、みんなの前で「期待外れ」と言われ、完全に開き直ったこと。それが、チャコットでの大きな転機になったのです。
社内改革は大変
入社して1年は、「知ること、馴染むこと」をメインにやっていたと言いました。でも、チームのマインドを変えることは、とても難しいことでした。チャコットの売上は定番商品が70%を占めていたので、アパレルとは違って、時間の流れがとてもゆるやかでした。
そして、変化をあまり好まない風土もありました。そんな時、あるオンワード出身の方と出会いました。その方は大手スポーツクラブの役員に転職されていました。
最初は商談でお会いしたのですが、そこからプライベートでも会うような仲になりました。ある日、居酒屋で僕はチャコットの現状を話しました。「変化を好まない風土の中で、どうやってみんなのマインドを変えていけばいいんでしょう?」と相談しました。
すると、彼が面白いことを教えてくれました。
「金平が10個変えようと思っていることを、一気にやろうとすると、反発や抵抗を受ける。だから、その10個に順番をつけて、すぐに実行できる3つだけを、1年かけてやってみろ。最初の3つが変われば、次の3つも受け入れる土壌ができる。残りの4つは抵抗なく受け入れてくれるはずだ」というのです。
僕は、まず簡単にできることから実践しました。一つ目は服装です。それまでチャコットのMDはスーツ着用でした。僕もチャコットに馴染むためにスーツを着ていましたが、それをカジュアルな服装に変えました。そして、それまで着たことなかった**「コムデギャルソン」**を着るようになりました。
最初はみんな好奇の目で見るのですが、女性たちには好評でした。
二つ目は、役職で呼ぶことをやめることです。チーム内では役職ではなく、「○○さん」と、さん付けで呼ぶことにしました。この方が圧倒的に距離が縮まると思ったからです。こうした小さな変化が少しずつ浸透していきました。
三つ目は僕自身がダンスを習い始めました。色々なダンスを見に行って、その中で”サルサ”を選びました。ダンスの中ではとても楽しそうで、また音楽がとても心地良かったからです。

そのうちに僕が通っているスタジオが主催するイベントで人前で踊るようにもなりました。
するとだんだんチャコットの人たちの距離が近くなるのを実感できました。この人はダンスを習って、ちゃんとチャコットの文化を学ぼうとしている。ダンスを理解しようとしていると思ってくれたのだと思います。
そうしているうに僕はチャコットに人たちに、少しずつですが受け入れてもらえるようになりました。
その結果新ブランド構想を進める時も、それほど大きな抵抗はありませんでした。みんな、新しいことにチャレンジするという前向きな気持ちで取り組んでくれたのだと思います。
それも「Welcomfo by Chacott」ができた、大きな理由の一つだったと思います。
NEVER STOP MOVING
チャコット時代には、忘れられない出会いがあります。
その一つをご紹介します。
僕は、担当していた「LUIGI」というJAZZ DANCEブランドにも関わっていました。
「LUIGI」とは、ニューヨークにダンススタジオを持つ、LUIGI FACCUITOさんのことです。LUIGIさんは、もともとブロードウェイダンサーでした。

ところが交通事故で生死をさまよい、一命は取り留めたものの、もうダンサーとして復帰することは難しいと思われていました。それでも、彼は奇跡的な復活を成し遂げました。
初めて会ったのは、2005年にニューヨークへ出張した時です。目的は、ニューヨークでのヨガのリサーチと、LUIGIのスタジオを訪ねることでした。
そこで初めて彼に会いました。

そして、それ以来、毎年暮れになると、プライベートでもニューヨークへ行くようになりました。
なぜ、そこまで彼に引き込まれたのか?
理由があります。
2001年の9.11同時多発テロ以降、ニューヨーク全体が沈んでいた時期、LUIGIのスタジオには、ダンスを習うのではなく、ただ話をしに来る人も多かったそうです。
交通事故によって、もうブロードウェイの舞台に立てない。
それでも新たな自分の道を切り開いたLUIGIの姿が、多くの人の心のよりどころになっていたのだと思います。
僕がチャコットに入社したのは2002年4月。9.11からそれほど時間が経っていなかったので、この話はとても印象に残りました。
それから僕は5年連続で、プライベートでもニューヨークへ行きました。
午前中はLUIGIのスタジオに通い、午後はニューヨークの街を散策しました。午前中のクラスは、シニアの方や小さなお子さんが対象でした。午後は学生、夜はプロを目指す人たちのクラス。当時LUIGIは80歳くらいになっていたので、午後と夜のクラスはお弟子さんが担当していました。
僕が受けていた午前のクラスは、とてもフレンドリーで楽しいものでした。ところが、ある日、いつものようにスタジオへ行くと、とても若い女性が来ていました。僕がここに通うようになってから、こんなに若い女性を見たことがなかったので、不思議に思いました。LUIGIと親しげに話しています。どうやら、その日のレッスンの打ち合わせをしていたようです。
そしてレッスンが始まりました。いつもよりも、ずっと難しい振り付けです。
僕も何とか食いついていこうとしましたが、難しくてついていけません。そして、途中で止めてしまいました。するとLUIGIが僕のところにやってきて、こう言ったのです。
「NEVER STOP MOVING」
これは彼の口癖で、いつも言っていた言葉でした。
僕のことを「RYO」と呼び、続けてこう言いました。
「できなくても続けよう。止めたらそこで終わり。でも続けていたら、できるようになるかもしれない」僕は、できないと思い込んで止めてしまったことを恥ずかしく思いました。
そして、最後まで続けました。
すると、周りの生徒さんから拍手をもらいました。「最後まで懸命に頑張りましたね」
そんな温かい言葉も、たくさんもらいました。その日来ていた若い女性からも、ねぎらいの言葉をもらいました。彼女のダンスは、とてもスタイリッシュでありながら、とても優雅でした。とてもシニアクラスに来るような実力ではありません。僕は思い切って、彼女に尋ねました。
「どうして今日、このクラスを受けたのですか?」
すると彼女は、現役のブロードウェイの舞台に立っている人でした。ただ、ブロードウェイは競争が激しく、現役でも半年に一度はオーディションを受けないと、次のステージに立てないそうです。夜20時スタートのステージでも、毎日13時頃には劇場に入り、本番と同じように通し稽古をする。ブロードウェイの舞台はローテーション制なので、主役以外は毎日メンバーが変わるため、通し稽古が欠かせないそうです。
そして彼女は言いました。
「憧れていたブロードウェイの舞台だけど、この生活に疲れてしまった」LUIGIのスタジオに小さい頃から通い、憧れのブロードウェイの舞台を目指してきた。
でも、心身ともに疲れてしまったというのです。
華やかなブロードウェイダンサーも、常に競争にさらされ、毎日の稽古と本番。心身ともにタフでなければ務まりません。
でも、彼女は最後にこう言いました。
「今日、ここに来てよかった。LUIGIと踊って、小さい頃にブロードウェイの舞台を目指していた頃を思い出した!」
そして、
「今日も頑張るわ」と言って、劇場へ向かいました。
僕はLUIGIと一緒に仕事ができていることを、心の底から嬉しく思いました。
そして思いました。
「LUIGIはダンスを教えているんじゃない。どんなに不遇で、つらく、大変なことがあっても、勇気を持って前に進もうという人生を教えているんだ」
LUIGIに会うことで、僕も毎年、心がリセットされました。今はもう亡くなられてしまいましたが、僕は「NEVER STOP MOVING」という言葉を決して忘れません。
そして今も、辛い時、困難な時には必ずこの言葉を思い出します。
「止まってもいい。ちょっと休んでもいい。でも、完全に止まるのはやめよう。続けていたら、できるかもしれないから」
僕は40代に、素晴らしい出会いをしました。
黒船が来た
2010年。
僕が50歳を過ぎた頃、その「黒船」がやってきました。
新しい社長です。僕が入社以来、務めていた社長が任期満了で交代することになったのです。その頃の僕は、チャコットに丸7年在籍して、すっかり馴染んでいました。仕事も順調でした。
チャコットでもRENOWN時代と同じようにスポーツ仲間を作り、色々な大会に出たりして、公私ともに充実していました。
ただ、50代になって、少しずつ、
「このままでいいのかな?」
という気持ちも芽生えていました。
僕はどうやら、安定というのが苦手なんだと悟りました。変化がないと、どこかつまらなく感じてしまう。そんな自分の性格が分かってきたのです。
そんな時に、新しい社長が就任しました。
僕がこれまでの人生で会ったことも、見たこともないようなキャラクターでした。オンワード出身で、メンズを担当していたそうです。MD出身で、オンワードの主力ブランドの構築にも携わった人でした。また、チャコットの前には、当時「ラルフローレン」を手掛けていた会社の社長をされていました。
まさにブランドビジネスを体現してきた人です。
最初に口を聞いたのは、部課長会でした。一人ひとり挨拶をしていくのですが、彼は事前にみんなのことを調べてきていました。僕が一通り挨拶を終えると、彼は僕に言いました。
「お前、RENOWN出身らしいな? 俺はRENOWNが大嫌いなんだよ!!!」
いきなり怒鳴られました(笑)。
続けて、
「ある得意先でRENOWNと競ってきた時に、RENOWNの営業は真っ赤なスポーツカーで納品に来たんだ。俺はそれを見て、RENOWNには絶対に負けないと誓ったんだ!」
と言うのです。
僕には何の関係もないのに、めちゃくちゃ怒るんです。
挙げ句に、
「お前、まさかスパイじゃないよな?」
と言われました。

僕は、
「僕はもう7年もチャコットにいます!」
と反撃しました(笑)。
本当に一人ひとりの素性を調べてきて、そこを突いてくる。誰から聞いたのかは分かりませんが、「怖い人が来た」と思いました。そんな最悪の出会いではありましたが、僕の名前は覚えてもらいました。
そして、彼の話を聞いているうちに、僕にとってとても興味深いことが分かってきました。
まず、出身がMDなので、企画の話をしっかり教えてくれました。
そしてラルフローレンの話も、ブランドビジネスに直結しています。
僕は、
「この人から学べる」
と思いました。
すると、僕はまた元気になっていきました。
特に印象に残っている「語録」を紹介します。
ブランドビジネスを実現する中で、何度も言われたのが、
「ブランド磨き」
です。
ブランドとは何なのか?これは一人ひとり考え方が違います。だからこそ、まず「本物のブランドが絶対にやらないこと」を具体的に示していきました。これは、とても分かりやすかったです。
僕たちMDに繰り返し伝えられた言葉が、
「語れるもの作り」
でした。
MD、デザイナー、パタンナーは、何度もこの言葉を言われました。「一言で語れない物は絶対に作るな!」
「語れるポイントは何だ?」
と繰り返し言われます。
その後の企画ミーティングでも、「この商品の語れるポイントは?」というやりとりが圧倒的に増えました。営業に商品説明をするときも、「この商品の語れるポイントは○○です」と言うようになりました。「可愛いでしょ?」といった抽象的な説明はしなくなっていきます。これで営業も商品の「語れるポイント」が分かるので、お客様にも伝えやすくなりました。
そして営業に対しては、
「仕掛けて売る!」
でした。
チャコットでは、バレエのお客様などが何か困ると、店舗やECに特別な宣伝をしなくても足を運んでくれます。そして、お客様が商品を選ぶ。販売スタッフは、そのお客様をサポートする。
チャコットは、いわば「ソリューションビジネス」でした。提案型のビジネスではありませんでした。それでも100億円企業まで成長したのですから、それが間違っていたわけではありません。しかし、そのビジネスモデルには限界があることも明白でした。売る商品を徹底的に絞り込み、それを思い切って量を積む。そして店舗全体で訴求していく。
みんなが商品について語れる。宣伝やPRも、それを後押しする。お客様が商品を選ぶだけではなく、
「仕掛けて売る!」
という考え方です。
最初は当たらなかったものもありました。でも、どんどん精度が上がっていきました。
二人の出会い
結局僕はチャコットに、17年間在籍しました。
40代でLUIGIに出会い、50代では、この社長に出会いました。今思えば、この二人との出会いが、チャコットでの17年間を有意義なものにしてくれたのだと思います。
LUIGIからは、
「大変な場面でも、ちょっと休んでもいい。でも、止まらない」
ということを教えてもらいました。
そして社長からは、
「ブランドとは何か?」を教えてもらい、
また「年齢に関係無く、MDとして接してもらう」
という経験をさせてもらいました。
この二人との出会いは、僕の人生において、とても貴重なものになっています。
チャコット時代の僕は、仕事を学んだだけではなく、人から人生を学んだのでした。

AMES BALANCEの誕生
チャコットを辞める
2019年の夏、チャコットを辞めることになりました。
新社長が就任し、更なる成長を目指してWelcomfoを発展的に解消し、新たなブランドにすることになりました。再びマーケットを徹底的に分析し、約10ヶ月かけて新ブランド「Chacott BALANCE」を作りました。そしていざ発売開始のタイミングでしたが、新社長と意見の相違があって、辞める決断に至りました。本当に悩みましたが、60歳という節目もあって、次のステージにいこうと決断しました。
アツギへ――もう一度、新しいことに挑戦
約1年間の準備期間を経て、2020年にアツギ株式会社に入社しました。アツギ株式会社が新プロジェクトで、繊維に鉱石を練り込んだ糸を使ったスポーツブランドを手掛けるということで、声を掛けて頂いていたからです。

僕は2014年のチャコット時代に繊維に鉱石を練り込み、身体を活性化させる技術を台湾出張の際に知りました。その時僕はこのような技術を知って衝撃を受けました。僕は上層部を説得し、チャコットでこの技術を採用しました。最初は怪しい技術のように言われましたが、今のリカバリーウェアの市場を見れば、僕は先見の明があったと思います。僕はその知識があったので、アツギから声を掛けて頂いたのだと思います。
まさかのプロジェクトの中止
ところが入社してすぐにアツギが、ネットで大炎上する事件を起こしてしまって、ネットを中心に不買運動が起りました。
さらにその年の暮れから、あの「コロナ」が広まり、アツギの業績は一気に下がりました。不買運動に加えて、出勤しないスタイルが定着し、メイン商品であるタイツの需要がまったくなくなった為でした。
僕たちのプロジェクトも扱ってくれる流通の多くが閉鎖してしまっているので商談さえままならなかったです。自社のECサイトでの売上も新規ブランドなどで知名度がなく、全く売れませんでした。
本業のタイツが大苦戦する中、このプロジェクトは約2年で中止が伝えられました。僕はこのプロジェクトに参加するために呼ばれたので、他のアツギの仕事をする気はなかったので退社することにしました。
これは本当に悔しかったです。
60歳を過ぎて何をやるのか?
僕はアツギと並行して副業をやっていました。やはり鉱石を使った商品のものづくりをサポートする仕事をやっておりました。鉱石を使った技術を理解している人が少ないので、僕にもいくつか声が掛かりました。アツギを辞めた時も、2つの会社からお声がけを頂きましたが、お断りさせて頂きました。
何かまた違ったことをやってみたかったからです。
次のステージで特に何かやりたいことがあった訳ではなかったです。ただ60歳過ぎて何かモチベーションが上がるような事でないと、続かないな?と思ったのです。
それは
ときめくようなことなのか?
ドキドキするようなことなのか?
それが何か?は、はっきりしていませんでした。
中村誠一との出会い
そんな時知り合いから、面白い技術があるみたいだから、一緒に行かないか?と声を掛けてもらいました。そこは春日部にある一級建築士の事務所だと教えてもらいます。僕は繊維とは全く関係ないので、聞いたとき正直「関係ないな」と思いました。
そして2022年の秋に初めて中村誠一さんと会いました。話を聞いているうちにとても魅力的な技術だと思いました。それは中村さんが10数年かけて開発した「建材」でしたが、エコタン水という水溶液なので様々なものに応用できることがわかりました。その技術の原料が“ホタテの貝殻と米のもみ殻を炭化”したものだけと聞いて、直感で面白いと思いました。そして水溶液ながら、鉱石を糸に練り込んだものと同等の効果もあることもわかりました。
そして何より中村さんのこの技術は困っている人の為に使いたいという信念にも共感しました。

この技術の開発のきっかけが、中村さんが若い時に知人の家を設計したのですが、その新築祝いに行ったところ、その友人から「頭が痛くなる」「匂いが気になる」と言われたそうです。ところが中村は「新築独特の匂いですね」と言ってしまったそうです。後になって、次々に現在では使用してはいけない建材だったと知ったそうです。
中村さんは建築士ですから、建材まで責任を負う必要はないと思いますが、中村さんはなぜあの時に友人の言葉に耳を傾けなかったと後悔していると言いました。そしてそのことが、この技術を作ろうと決意したきっかけになったと教えてくれました。
まずは何より自然の原料で安心・安全での建材を作ろうと考えたそうです。そこから十数年、設計の仕事と平行して、この技術の開発に没頭したそうです。
僕はこの技術を使って、ウェアを作ることを提案しましたが、答えはNOでした。今まで色々な人たちがそのような声を掛けてくるがどれも金儲けの為で、この技術を理解しようとしないとの返答でした。僕はそこから3回ほど春日部のオフィスに通って、プランを何度も提案しようやくOKをもらいました。
ただ条件が付けられます。
僕が中村さんの会社、アムズ企画株式会社に入社するのではなく、投資し共同でこの事業をやること。基本はEC中心の販売で、商品開発、サイトの作成及び管理、お客様対応、Instagramの運営、出荷指示、在庫管理まですべてやってほしいとのことでしたので、もちろん了承しました。
中村さんと僕を引き合わせてくれた人も参加し新規開拓の営業を担当してくれることになり、3人で運営することになりました。
そして中村さんと初めて会ってから1年後の2023年12月にAMES BALANCEと名付け、販売を開始しました。

販売を開始してから、様々な問題に直面します。
一番の課題はこの商品に興味を持ってくださる人たちが多種多彩なことです。商談や問い合わせなども多く頂くのですが、その商談相手が、お医者様であったり、理学療法士、柔道整復師などの国家資格を持っている人たちや、アパレルメーカー、スポーツメーカーなど本当に様々な方からの問い合わせや相談なのです。お医者様と言ってもリハビリ科から精神科など様々です。また接骨院の先生からなどの問い合わせは、こちらも身体の事を知らないと応えられません。

最初は大変なことに足を突っ込んでしまったと思った時期もありました。しかしそこから身体、血流、血液、自律神経、カラダのつぼなど様々な本を読んで勉強できたことは、今では良い経験になったと思っています。
僕が今までと違ったことをしたいと願っていたわけですから(笑)
違う人生を歩むと楽しいこともたくさんありますが、実際はその何倍も大変な事が多いと実感しています。
芸能の世界への挑戦
テアトルアカデミーへ入所
それからなぜか?芸能事務所の「テアトルアカデミー」に入ることになりました。きっかけはネットで見た「モデル」募集の広告です。ちょうどAMES BALANCEを販売した直後の時期と重なりました。
ですが、すぐに「やろう!」とは思いませんでした。しかし何か引っかかって気にはなっていました。しかしAMES BALANCEを立ち上げたばかりの時期だったので、その時はスルーしました。
でもなぜ?今でもなぜ応募したのか?わかりませんが、書類を作成して応募していました。受かるとは思っていなかったので、軽い気持ちで送ったのだと思います。すると書類審査を通り、二次審査の案内が届きました。
二次審査は、対面による面接と歌を披露するというものです。会場はテアトルアカデミーの事務所で行われました。そこで事前に記入する書類がありました。記入する項目は「好きな映画」「好きな音楽」「好きな本」を記入し、それぞれ好きな理由を書くというものだったからです。なにより驚いたのは履歴書を提出しなかったからです。出身学校や職務経験、資格などはまったく事務所には出していません。そして約1ヶ月後、なんと!合格の通知が届きました。
そして合格者には説明会が開催されました。モデル志望でも演技ができないと仕事は来ないので、まずは基礎である演技レッスンを学んでもらうと言われました。モデルと言えば「立ちポーズ」のイメージでしたが、確かにそんな仕事はそんなに多くはないだろうと納得して、レッスンに臨むことになります。
レッスンは1クールが3ヶ月で10回行われます。それを約2年、8クール行われて、その後ようやく仕事の案件をもらえるようになります。先生は1クール毎に自分で選ぶことができます。僕は最初、誰を選んで良いのかわからなかったので、勘で選びました。
篠本賢一現る
そして、演技レッスンの初日を迎えます。怖そうな顔をした先生が教室に入ってきました。みんながイメージする昭和の演出家の雰囲気、そのままのような人です。昭和の演出家が竹刀を持って指導している映像が浮かびます。まさに昭和の権化みたいな雰囲気でした。

その名は「篠本賢一先生」です。ご自身でも劇団を主催しており、定期的に公演をやっています。初日はお話しだけだったのですが、
もう初日で辞めようと思いました。
まずは自己紹介したのですが、ここからすでに厳しい笑。なぜ演技を学ぶのか?そしてシェークスピアなどを読んだことがあるのか?好きな映画などが聞かれましたが、篠本さんの表情が曇っていくのがわかります。みんな選んだものが現代劇ばかりで、演技の基礎になるようなものを挙げなかったからです。シェークスピアについても聞かれますが、ほとんどの生徒がシェークスピアに触れたことがありません。読んだこともありません。
ここで篠本さんの名言がでます。「プロ野球の選手になりたいのに、今まで野球場に行ったことがない?プロ野球選手を観たことがない?」それと同じだと言いました。
僕はその場で、雷が落ちたような衝撃を受けました。なんとなくモデルになりたいとふわふわした気持ちで、初日を迎えたことを後悔しました。事前準備、情報を得ることをまったくしていかなかったからです。
生徒は12,3人いましたが、みんな同じように怒られます。
ただ僕は少し嬉しかったのを覚えています。なぜなら篠本さんは
本気で怒っているからです。篠本さんは芸能の世界で仕事する現場は、真剣勝負でやり直しなどあり得ない世界だとも教えてくれました。舞台は、観客に観られてやる。テレビの現場でも何十人もがその仕事・現場にかかわっている中、NGを連発するなど許されない世界であると教えてくれました。
初日はまず、基本の考え方を教えてもらって終わります。初日はほとんどお話しだけで終わりますが、この3ヶ月間の方針が伝えられました。テアトルアカデミーから渡されたテキストから、滑舌などの基本をやって、並行して「外郎売り」を学ぶという方針が伝えられます。外郎売りをこの3ヶ月の間に覚えてもらうとのことでした。初日に少しだけ読みましたが、もう絶対に無理だと思いました。
芸能の世界で生きる厳しさと現実を知って、もう辞めたくなった初日でした。
2回目――昭和の部活が始まった(笑)
演技のレッスンの2回目がやってきました。初日から、強烈な言葉を投げられ、もうレッスンの前から緊張が走りました・
みんな、戦々恐々とした顔つきで篠本さんを待っていました。ドアが静かに開き、今日から本格的なレッスンにはいると告げられました。
レッスンは1クール、90分です。
まずは身体をほぐす為の体操から始まります。これがラジオ体操ではないけれど、似たような体操ですが、普段身体をまったく動かしていないシニアの人にはきつそうに見えました。体操以外にも身体を動かします。篠本さんが考えた独自の準備があって、これをたっぷり30分やります。準備だけで、ですよ!!!
そこから、「あ、え、い、う、え、お、あ、お!」などの基礎の声出しが始まります。ひとりがこれを言って、全員がこれを繰り返します。ア行からカ行、サ行と順番にいきますが、もうこれだけでヘロヘロです。「声が出ていない!声が小さい!」など篠本さんの檄が飛んできます。それから早口言葉をやりますが、みんなできません。しかしみんな息を切らしながらも必死についていきます。
でもみんな60歳オーバーなので、みんな中々大きな声、早口言葉ができないのです。篠本さんはシンプルに出来ていない人には遠慮なく、ダメ出しが飛んできました。まったく出来ない人は10回以上、できるまでやらせていました。僕は昭和の部活を思い出しました。
外郎売りは大変
そして最後の15分にやっと「外郎売り」のレッスンでした。外郎売りをやる目的は、これをただの早口言葉として教えるつもりはないと言いました。俳優、声優、アナウンサー、歌舞伎役者などがやる滑舌、早口言葉として教えるところが多いが、「僕は外郎売りを演技のための教科書として取り上げている」と言いました。どういうことかと言うと、言葉には幹と枝があると言うのです。
幹は少しゆっくり、そしてハッキリと話す。枝は、リズム良く滑らかに話す。
そのメリハリが大切だと言うのです。確かに他の人の外郎売りをYouTubeなどで聞くと、皆さん滑らかに言っているのですが、ただの早口言葉の練習のようにしか聞こえません。しかし篠本さんが見本でやると、メリハリがあってみんな引き込まれていきました。
篠本さんは「外郎売り」をやることで、滑舌のトレーニングはもちろん、「台本読解」や「セリフの言い回し」「セリフの幹と枝」がここに凝縮していると教えてくれました。
シニアだからこそ持っているもの
2日目の最後に篠本さんが言った言葉は今もずっと残っています。
僕はシニア世代と若い世代と教え方は一切変えない。基本は一緒である。シニアだから最初からできないと決めつけることはしない。
そしてシニアには若い人にはない圧倒的な経験と魅力がある!と。
だから可能性を信じているから、まったく同じように扱う。と言ってくれたのです。僕はこの言葉が本当に嬉しかったです。シニア扱いをされて、お客様的な扱いをされていたら、こんなに真剣にレッスンに取り組まなかったと思います。この人は本気で、舞台や映像の世界にひとりでも立たせたいと思っているから、滑舌が悪かったりするとどこからも選ばれないと思ってくださるからこそ、本気で怒っているのだと感じました。
僕は、そこからスイッチが入ったのかもしれません。絶対出来ないと思っていた外郎売りも3ヶ月の間にマスターしてやる!と心に決めたレッスン2回目でした。
そして何とか篠本さんのレッスンの1クール(3ヶ月)が終わりました。結果この3ヶ月の間に「外郎売り」をマスターすることができました!初めて見たときには絶対にできないと思っていたのに・・・
毎日、毎日コツコツやっているとできるようになることがわかりました。この時思ったのです。篠本さんはできるから、厳しく言うんだと。できるのに、一生懸命やらないから怒るんだ・・・と。
僕はこの外郎売りをマスターできたことで、少々長い課題や台本が与えられても、外郎売りがマスターできたのだから、あれよりはマシだよなと思えるようになりました。
台本は設計図
篠本さんが言うには、台本とは「設計図」のようなものだそうです。まったく何も問題や事件が起こらないものは、舞台にも映像にもなりません。だからまず、その台本(設計図)をしっかり読解することを教えられました。
と言っても、これを理解するのには丸2年かかりました。
シェークスピアとの出会い
篠本さんが僕らに与える課題の台本は、戯曲から抜粋したものが多いので、結局その台本を演じるためには、その戯曲を1冊丸々読まないと、全体像がわからず、台本(課題)の前後がわからないのでできません。僕は戯曲を読むことが今までなかったので、最初は大変でしたが、だんだん理解できるようになっていきました。
そして4クール目についにシェークスピアの「マクベス」をやることになります。またその最初の授業で篠本さんが暴れます笑
シェークスピアの何を読んだことがあるのか?を聞くと、僕を含めてほとんど人が読んだことがなかったのです。
するとまたあの名言を言います。「プロ野球選手になりたいのに、大谷選手を知らない?」演劇の世界ではそれと同じだと言うのです。
まったくその通りで、言葉も出ません。僕はそのマクベスの本を読みましたし、映画も観ました。最初は難しいと思っていたのですが、実際に読んでみるとシンプルに面白かったです。シェークスピアは難解で、難しいと勝手に思い込んでいたのです。それから僕はシェークスピアを7冊読みました。どれも辛い悲しい悲劇ばかりと思っていたら、喜劇もありました。これが400年前に書かれた本(戯曲)だなんてとても信じられません。現代のドラマでも似たような話がたくさんあるのは、どれもシェークスピアがベースになっているのだとわかりました。
2年間、8クール終了
そして2年間、8クールに及ぶレッスンが無事に終了しました。
最初2年間は長いと思っていましたが、あっという間に過ぎていました。僕は結局8クールすべて篠本さんに教えてもらいました。
篠本さんとは時間が合えば時々飲みに行くくらい仲良くなりました。
そしてテアトルアカデミーの主催で、演出が篠本さんの舞台に立つことができました。この舞台に立つのに半年間の稽古がありました。この舞台での演出家篠本さんは、レッスンの時とはくらべものにならないくらい厳しい稽古でした。テアトルアカデミー主催とはいえ、お金を頂く舞台なので厳しいのが当然ですが、想像以上に大変でした。

しかしやり終えてみると充実感でいっぱいでした。舞台はライブなので、お客様も毎回違いますしのりも違います。この人前でやる
緊張感は大変ですが、やみつきになりそうなくらいの高揚感がありました。役者さんの多くが、「やっぱり舞台は良い」と言っているのが少しですがわかりました。
僕が頑張る理由
今、僕はエキストラでの仕事をたまに頂くことができるようになりましたが、配役のある仕事はまだ出来ていません。
映画やCMなどオーディションまでは何とかいくのですが、合格には至っていません。選ばれる側なので、そこで僕ができることはありませんが、全力でやることはできるので、そこに集中して挑んでいます。
今はどんなに小さな仕事でも頑張ろうと思っています。
それには理由があります。それはお母さんに観てもらいたいからです。

元気だったお母さんですが、今は車椅子生活をしています。
今年NHKの朝ドラや番組にエキストラで出ましたが、とても喜んでくれました。それがとても嬉しくて今はそれが親孝行のつもりで頑張ろうと決めました。
人に恵まれた人生
AMES BALANCEもこの芸能の道も、考えれば63~64歳から始めています。でもこれもこの年齢になっても中村誠一、篠本賢一さんという素晴らしい出会いがあったからです。
僕はどの年代も人に恵まれています。ですからどんな困難も何とか乗り切れましたし、今も頑張れます。
僕の人生は中学時代までは、とても窮屈な人生だと思っていましたが、今は好きな事がやれるなんて充実した人生だと思っています。
AMES BALANCEも芸能の世界もまだ入り口に立っただけなので、これからこの世界を楽しみながら、頑張ろうと思います。
